『夏の日』
「サンマが食べたくなりました」
彼がそんなことを言って、ひょいと観月の部屋に顔を出したのは、今朝早くのことだった。久しぶりの休日である。観月が洗濯物を出したのを見て、起きていると判断したのだろう。
「市場に行きませんか?」
海辺の町である光陽市には、月に六回立つ朝市がある。そこでは、新鮮な魚貝や野菜、手作りの漬け物などが格安の値段で手に入るのだ。
「ああ、いいね」
観月はおっとりと頷いた。休日と市日が重なるのは本当に珍しい。久しぶりに、あの活気に触れてみるのもいい。
「じゃあ、支度してきますね」
若々しい軽い足取りで、彼は自分の部屋に戻っていく。観月の三つ隣の部屋に。
彼、月端樹紀がこの光陽病院にやってきて、すでに一年が過ぎていた。病棟勤務にもすっかり慣れた様子で、毎日にこにこと楽しそうに仕事をしている。彼の心に潜む闇は完全にぬぐいさられたわけではないが、支える腕を持って、彼は強くなった。闇に目をふさぐのではなく、真摯に向き合おうとしている。
「何だか、雨が来そうですね」
アジア雑貨の店で買ったのだという大きなジュートの籠を下げて、樹紀は空を見上げた。
「一雨来るかもしれないね」
観月もつられたように空を見上げる。海の上の空が暗く澱んでいた。洗濯物は一応屋根の下に入れてあるが、雨が吹き込んだら、少し濡れてしまうかもしれない。
「でも……雲の向こうは明るく見えますから。雨が降っても、きっとすぐに止みますよ」
樹紀は明るく言った。華奢で小柄な彼は、長身の観月の肩より少し上くらいまでしか身長がない。さらさらと視線の端で揺れる髪からミントのいい香りがした。
「サンマと……トマトときゅうりと……枝豆と……」
メモを見ながら、樹紀が数え上げている。
「先生、何が食べたいですか?」
「すいか」
「ええっ! そんなに持てない……」
樹紀が素っ頓狂な声を出す。観月はくすくす笑う。
「それは僕が引き受けよう。君はそれ以外を頼むよ」
「はいっ」
少し薄暗くなってきた梅雨空の下で、樹紀の笑顔だけが明るく見えた。
市場は予想通り、活気に満ちていた。売る方も買う方も値段の交渉をしながら、楽しげに品物のやりとりをしている。樹紀は都会っ子のはずなのに、上手に交渉しては安く売ってもらったり、おまけをつけてもらったりしている。
「はい、先生、すいかですよ」
「お」
どうやってふたりで食べるんだと言いたくなるほど、大きなすいかがビニール紐で作ったネットに入れられて、渡された。
「お、大きいね……」
「あまったら、病棟の同僚たちが喜んで食べてくれますよ」
にこっと笑って、樹紀が大きな籠を揺すり上げる。と、その時だった。
「うわ……っ」
突然だった。まるでスコールのような大粒の雨が降り出したのだ。多くのひとが出ていた市場も蜂の巣をつついたような騒ぎになる。テントを打つ雨粒のの音が凄まじい。
「樹紀!」
観月は樹紀の腕をとって、店舗前の張り出し屋根の下に引っ張り込んだ。
「すぐに止むと思うけど……」
ばたばたと落ちる水滴をしばらく見上げていた樹紀がふいにぱっと走り出した。
「樹紀……っ!」
「すぐに止むなら、トマト買ってきますっ!」
「樹紀っ! そんなに急がなくても……っ」
「先生、午後から病棟回るでしょ。それまでにお昼食べなきゃっ!」
雨の中、駆けだしていく樹紀の背中は本当に小さくて……彼の抱えている重いものを思った時、観月はつきりと自分の胸が痛むのを感じた。
そして、その痛みはなぜか、ほんの少しだけ甘かった。
人ごみをまぶしそうに君が走ってくる。
降り続く雨は止んで 夏の空に変わった。
雨は降り出したのと同じように、唐突に止んだ。空は海の方からどんどん明るくなって、ぱぁっと光が満ちあふれる。
「先生っ!」
一気に夏色になった空をまぶしそうに見上げた観月の耳に、その空のように明るく澄んだ声が聞こえる。
「やっぱり止みましたねっ!」
彼が道の向こうから大きく手を振っているのが見えた。その腕には、なぜか大きなひまわりの花束が抱かれていた。まるで彼自身の笑顔のようにぱっと明るい夏色の花が、彼が走るたびにふわふわと揺れて、あたりに夏の色と香りを降りこぼす。
「どうしたの、それ……」
樹紀の笑顔と大きなひまわりの花束をまぶしそうに見る観月に、彼は微笑む。
「トマトを買った農家のひとがくれました。畑の隅っこに咲いてたんだって」
「そう……」
ふたりは肩を並べて、病院への坂を上り始めた。
「サンマ、晩ご飯に焼いておきますね。お昼はトマト切りましょうか」
「ああ……完熟かい?」
「ええ。真っ赤でお日様の匂いがします」
”君の方が……夏のお日様だ”
真っ赤なトマトは甘かった。少し青いような…それでも甘いひなたの味だ。
「……そういえば」
大きな白い皿にトマトをいっぱいに盛って、花瓶に生けたひまわりと一緒に観月の部屋に現れた樹紀は、ふと思い出したようにポケットに手を入れた。
「部屋を掃除していたら……ベッドの下からこんなものが出てきました」
彼が差し出したのは、メンソールの煙草だった。
「あ……」
これは……あのひとが。
かつて、観月の愛したひとが受け取ったもの。彼の恋人がその天才の腕を見せたあのひとに、まるで労うように……ごく当たり前のように投げたもの。きっと……ふたりの秘密を抱いたもの。
「……もう……いらないものだと思うよ」
小さな想い出はずっと眠っていた。だから。想い出は想い出のまま。
「捨てて……いいよ」
「はい」
眠らせてしまおう。永遠に。かたく鍵をかけて。もう……想い出はいらない。
あの夏 世界中でいちばん大切なひとに会った。
今日までの そして これからの人生の中で。
時の流れはふたりで刻んでいくんだ。 君が……好き。
(BGM 「こころ」 by K・ODA)